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【特別寄稿】パチンコ産業の歴史①「パチンコの誕生~第1期黄金時代」(WEB版)/鈴木政博

投稿日:2022年3月28日 更新日:

この度、無事に『遊技日本』創刊60周年号を発行する運びとなりました。これも全て皆様方の温かいご厚情、ご支援の賜物と心より感謝いたしております。記念号としてパチンコの歴史を振り返る意味において、今回からは2010年4月号から連載していた「パチンコ産業の歴史シリーズ」を一部加筆・修正して再掲載いたします。

パチンコ産業の歴史-コリントゲーム・ウォールマシン

1. パチンコ誕生と名前の由来
パチンコ機の原型は西洋のマシンであるというのが、今では定説となっている。1つは横置き型の「コリントゲーム」が原型という説。こちらはピンボールの原型とも言われており、現在のスマートボールのようなものだ。そしてもう1つは縦置き型の「ウォールマシン」だという説。こちらは壁に取り付けて遊んだことから「ウォールマシン」と呼ばれた。さらに、この両者のいいとこ取りをして組み合わせたもの、との説もある。

ウォールマシンがヨーロッパで誕生したのが1900年。そしてコリントゲームなどのマシンがアメリカから日本へ輸入されはじめたのが1920年だ。ちなみに「コリントゲーム」は日本語名で、最初に輸入・販売した企業名が「小林脳行(株)」だったため、販売会社が小林を「コリン」と読んで「コリント商会」より販売したことから名前が定着した。

日本国内では、1922年には既に、現在のパチンコの原型と思われる遊技機が「パチパチ」「パッチン」などの名称で関西で露天営業を始めていたようだ。1924年には宝塚新温泉にヨーロッパの「ウォールマシン」が設置される。その後1928年には中山工業所が「景品付き球技菓子販売機」を発売。ここまでは縁日やデパート屋上などで子供を中心に人気を博していたが、ついに1930年、愛知県警察部が名古屋で自動遊技機の営業許可を出し、この店が「パチンコ遊技場第1号」となる。これが「名古屋がパチンコ発祥の地」といわれる所以のひとつだ。

翌1931年からは全国的に「一銭パチンコ」が普及する。これは投入口に一銭銅貨を入れると玉が出て、入賞すると一銭、二銭の現金が出るものだったらしい。これに大人も熱狂するようになった。当時はこの「一銭パチンコ」 が関東では「ガッチャン」「ガチャンコ」と呼ばれていたようだ。翌年の1932年あたりからは「パチンコ」という名称が定着。関西では「パチパチ」「パッチン」、関東では「ガッチャン」「ガチャンコ」と呼ばれていた名前が合わさって「パチンコ」になったと言われている。

2. 現在のホール営業の原点と遊技機規制の歴史の始まり
パチンコというネーミングが定着し、全国的に大ブームになると同時に、この1932年には一銭パチンコには規制が入ることになる。一銭銅貨に「皇室の御紋」が入っていたため、御紋の入った硬貨を遊技に使用するのはまかりならない、と言う理由から取り締まりが強化され、大阪府警察部が「遊技場取締り標準」を管下に通したのを発端に、次第に全国的にこの「一銭パチンコ」は禁止され、姿を消していく。

しかし、ここで終わらないのがこの業界の逞しさでもある。 2年後の1934年、全く同じ仕組みだが一銭銅貨ではなくメダルを使用する「メダル式パチンコ」を再度認可取得。これが翌1935年には全国に広がり、パチンコは復活を遂げる。遊技場は、人気獲得のために客が獲得したメダルをキャラメルなどのお菓子と交換をはじめ、ここから「景品交換」という現在のスタイルが始まった。

翌年1936年ごろ、名古屋の藤井文一という人物が、主流だったメダルを入れる方式ではなく、直接玉を入れる「鋼球式(玉式)」を考案。その後は今までの「メダル式」と、この「鋼球式」が混在しながらも、ブームは拡大を続けていく。ところが、このままパチンコ人気が続き繁栄していくと思われた矢先、1937年に 日中戦争が勃発。同年、戦時特別措置令で新規営業が禁止され、1940年には政府から遊技機製造禁止令が出される。そして1941年、太平洋戦争が勃発。翌1942年には戦時対策により、企業整備令とともにパチンコは全面禁止に。パチンコは「非国民的遊技」というレッテルを貼られたまま、戦前のパチンコ文化は終わりを告げた。

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