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【特別寄稿】パチンコ産業の歴史⑥「インベーダーブームとフィーバーの誕生」(WEB版)/鈴木政博

投稿日:2022年8月31日 更新日:

創刊60周年記念にあたり、業界の歴史を振り返る意味に おいて「パチンコ産業の歴史シリーズ」を再掲載しています。 ※この原稿は2010年9月号に掲載していた「パチンコ産業の 歴史⑥」を一部加筆・修正したものです。

1. インベーダーブームと第2期黄金時代の終焉
パチンコ第2期黄金時代。1975年には遂に10,000店舗を超えたホール軒数は、さらに右肩上がりの活況を見せる。翌1976年には、余暇センターの調べでパチンコファン人口3,000万人と推計され、ホール軒数も10,574店舗に増加。翌1977年には景品の最高限度額が1,000円から1,500円に引き上げられ、市場規模も大きくなっていく。

同年、 パチンコでは西陣がブラウン管式テレビを搭載した「テレパチマン」を発表。1977年と言えば白黒テレビ放送が廃止され完全カラー化した年で、プロ野球も王貞治が世界記録756号ホームランを記録するなど非常に盛り上がっていた時代。音楽もピンクレディ全盛期で、テレビは非常に人気があった。「テレパチマン」はそんなニーズに応え、パチンコを打ちながら画面ではテレビ放映が見られる画期的なものであったが、今改めて盤面を見てみると、後の液晶搭載機へ通ずるゲージ構成が既に垣間見えるのも興味深い。また同年には平和からも「逆転パチンコ」が登場。いちばん下のアウト穴まで辿りつけば賞球を得られるという逆の発想がユニークだった。スロットでは風営法認可の第1号機となる㈱マックス商事の「ジェミニ」が大阪に設置された。これは3メダル5ラインのアップライト型スロットマシンであり、当時、大阪府八尾市にはスロット専門店もできたらしい。

そして貸玉料金が1個3円から「4円以内」と改正された、翌1978年。このまま成長を続けるかに思われた矢先に、パチンコ業界にとっては悲劇がおこる。タイトーがアーケードゲーム「スペースインベーダー」を発売し、これが空前の大ブームを巻き起こしたのだ。

それはまさに、社会現象だった。26万台を販売したこのアーケードゲームは「テーブル型」も販売された事からゲームセンターだけでなく喫茶店や旅館にも置かれ、日本中が熱気を浴びる大ブームとなった。その人気は凄まじく、みんなが100円玉を積み上げ遊んだことから「100円玉を回収しにいった営業マンがぎっくり腰になった」「100円玉の流通量が減り、日銀が急遽100円玉を増発する緊急対策を実施」など数々のエピソードを生み出すほどだった。

この影響を大きく受けたのがパチンコ業界だった。インベーダ一がブームになり、インベーダーハウスと呼ばれる専門店が増えるのに反比例して、1979年にはホール軒数も9,961店舗と1万軒を割り込んでしまう。パチンコファンが、インベーダーに流れてしまった結果だった。次々とコンピューター化されてゆく社会において、もはや「チューリップ」の物理的な動きだけでは、パチンコは魅力が足りなくなったのだ。

メテオ

メテオ(平和)

パチンコ遊技機メーカーも、コンピューター化で電気的な動きや音を模索する。西陣がスタートチャッカーに入るとルーレットが回り、止まった数字分だけチューリップが開く「パワールーレット」を、平和が赤、黄、緑に入賞し、横一線に揃うとチューリップが開放する「メガトンQ」や、役物内のモグラを遊技球が叩き、叩いた分だけチューリップが開放する「モグラたたき」などを発売。さらには1979年に京楽が「UFO」でチューリップを電気的に開放する、いわゆる「電チュー」を初搭載し、その翌年1980年に発売された平和「メテオ」には電気的に開放する役物、いわゆる「電役」を初搭載するなどメーカー努力は続いた。しかし、電気仕掛けの新しいゲーム性を生み出しても、パチンコにブームが戻ってくることはなかった。窮地に追い込まれたパチンコ業界だったが、そこに、救世主は現れた。ご存じ「フィーバー」の登場である。

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