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【特別寄稿】パチンコ産業の歴史①「パチンコの誕生~第1期黄金時代」(WEB版)/鈴木政博

投稿日:2022年3月28日 更新日:

3. 戦後のパチンコ産業の復興と興と正村ゲージ
終戦後。1945年には早速、進駐軍のための遊技場が再開される。メダル一個が五銭で遊技できたようだが、本格的な復興とは程遠い状況だった。 ところが思わぬところに供給過多があった。戦争が終わった事により、軍事用の7/16インチ (11.11mm)のベアリング球が大量に余ったのだ。それが放出されたため、これをパチンコの遊技球として流用しはじめる。翌1946年には、あの正村竹一氏が名古屋市西区の自宅でパチンコ店をオープン。20台という規模ながらこの店は大繁盛する。

実は、正村竹一氏は本業としてガラス商を営んでおり、元々はパチンコとは無縁だった。 その正村氏にパチンコを知らしめたのが、前述した藤井文一氏だったようだ。戦前に直接玉を入れる「鋼球式」を製品化するために、必要に駆られて訪ねたガラス屋の主人が、たまたま正村竹一氏であり、この時、正村氏はパチンコに興味を持つようになったらしい。

正村竹一氏のパチンコ店は大繁盛が続いた。そこで台数を増やす必要にせまられていたが、当時は増台するにも遊技機がない、という状況だった。そこで正村氏は、自身での遊技機製造を開始する。それまで常識だった、盤面全体にバランスよく打たれた釘こそが、ゲーム性を単調にする原因だとして、「天灯」や「ハカマ」、「逆八の字」などを考案し、さらに風車なども付けた画期的なゲージを完成。1948年、ご存じあの伝説の「正村ゲージ」が登場する。さらに、正村竹一の従兄弟にあたる長崎一男氏が「オール物」を開発。どのチャッカーに入賞しても同じ個数を払い出す仕組みも合わせ、正村ゲージは人気沸騰となった。正村竹一氏は、今では現在の遊技機の基礎を作ったとして「パチンコの神様」と呼ばれている。

4. パチンコ「第1期黄金時代」の到来
1948年、競馬や競輪が「競馬法」「自転車競技法」の制定で合法化されるのと対照的に、パチンコは「遊技」と正式に位置づけられることとなる。同年9月、「風俗営業等取締法」が施行。パチンコは同法に基づく都道府県条例での許可営業となった。また貸玉料金も1個1円に決定。全国で統一されることになる。翌1949年には早くも「風俗営業等取締法」の一部が改正され、貸玉料金は1個2円に、景品上限額は100円までと定められる。

ここからパチンコは完全復興どころか、過去にない大ブームが巻き起こっていく。1949年に4,800店舗だったパチンコ店が、翌1950年には「オール20」が発売。どこに入っても20個の払い出しがある正村ゲージのこの機械は大人気となり、この年のホール数は何と8,400店舗に倍増。翌1951年には、あまりの人気に警視庁が「パチンコの遊び方」を発表し、全国的に18歳未満のパチンコが禁止されるもののブームは衰えず、ホール件数は約12,000店となり、その規模から全国遊技業組合連合会(全遊連)が発足する。そして 極めつけは翌年1952年に発売された「オール20連発式」だ。この機種の人気の高さからこの年、ホール軒数は一気に42,100店舗まで増加。さらに翌1953年には「循環式1号機」と呼ばれる「上皿付き高速連射機」が登場。機関銃と呼ばれて大人気となったこの機種は、一分間に160~180発もの発射が可能であった。そのあまりにも高い射幸性からか、この頃よりこの景品を買い取る「バイニン」と呼ばれるも者も目立ち始める。ピーク時の店舗数は45,317店舗にまでのぼり、まさにパチンコ「第1期黄金時代」が到来した瞬間である。しかし、この黄金時代は長くは続かなかった。

(以下、次号)

■プロフィール
鈴木 政博
≪株式会社 遊技産業研究所 代表取締役≫立命館大学卒業後、ホール経営企業の管理部、コンサル会社へ経て2002年㈱遊技産業研究所に入社。遊技機の新機種情報収集及び分析、遊技機の開発コンサルの他、TV出演・雑誌連載など多数。

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