2. 「電動式遊技機」の登場
1972年、警察庁が「一分間に100発、賞球15個」の遊技機基準の範囲内という条件付ではあるものの、電動式遊技機の認可を通達した。過去1953年に登場した「モーターパチンコ」も電動式遊技機ではあったが、こちらは一分間に200発もの発射がなされるものであり、連発式禁止の引き金になった遊技機といわれている。また、この「モーターパチンコ」は、電動式ではあるもののスイッチを入れると勝手に玉が発射される原始的な仕組みのもので、ストローク調整を遊技者が行えないという「技術介入性のなさ」も問題となった経緯がある。
そこで開発されたのが、現在のようなハンドルを回すことにより発射され、回す角度によって打ち出しストロークも変化するものであった。この構造により、手打ち台と同じく、遊技者の技術介入性の余地を残すことに成功。現在でもハンドル固定は厳しく言われているが、このような経緯で認可されたものであることを考えれば納得がいく。
しかし当時は、上級者、熟練者ほど「電動式遊技機」 への拒否反応は強く、しばらくは手打ちと電動の両方が設置され、住み分けがなされていたようだ。 また過渡期には、手打ちと電動ハンドルの両方が付いた遊技機も発売されている。ただし便利さや楽さ、初心者でも楽しみやすいという点から、電動式遊技機は次第に浸透していった。
3. インベーダーゲームによる業界打撃
1975年。アースマラソンで有名な「間寛平」の歌う「ひらけ!チューリップ」が100万枚を超える大ヒットとなった。まさにパチンコが第2期黄金時代を極めた出来事であり、それほどパチンコは社会に定着していたことを示す好例といえる。世間はボウリングブームの終焉で、郊外にパチンコ店が次々と出店しており、この年、ついにホール軒数は10,000店舗を超えた。 パチンコファン人口も3,000万人と言われ、まさにブームの頂点を謳歌していた。そんな時だった。1978年、 タイトーがアーケードゲーム「スペースインベーダー」を発売し、これが空前の大ブームを巻き起こすことになる。
(以下、次号)
■プロフィール
鈴木 政博
≪株式会社 遊技産業研究所 代表取締役≫立命館大学卒業後、ホール経営企業の管理部、コンサル会社へ経て2002年㈱遊技産業研究所に入社。遊技機の新機種情報収集及び分析、遊技機の開発コンサルの他、TV出演・雑誌連載など多数。