【特別寄稿】パチンコ産業の歴史④「回胴式遊技機~パチスロ誕生までの苦悩~」(WEB版)/鈴木政博

3. 0号機から1号機へ
1980年、パチスロとともに産声をあげたのが「日本電動式遊技機工業協同組合(日電協)だ。設立当時の加盟企業は10社、初代理事長に高砂電器産業の濱野準一氏が就任した。設立後、組合では数回に渡って「オリンピアマシンショー」という合同展示会を開催している。当時はフィーバーブームの残る頃ではあったが、1981年にはパチスロの全国設置台数が2万4千台、1983年には9万7千台と、市場を少しずつ固めていった。

そして1985年、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(新風営法)」が施行。ようやくここで法律上の中で「パチスロ」が「回胴式遊技機」として記載される事となり、同時に「財団法人 保安電子通信技術協会(保通協)」による型式試験が正式にスタート。ここから俗に言う「1号機」時代が始まった。なお、「0号機」は「1号機」以前の機種を総称したものを指す後付けの造語のようだ。

この保通協の型式試験を通過して「1号機」 第1弾となったのが高砂電器産業製「ワンダーセブン」、ユニバーサル販売製「アメリカーナXX」、北電子製「キャスター」、東京パブコ製「アーリーバード」の4機種。「1号機」のゲーム性としては、完全抽選方式ではなくメダルの差枚数が一定に達する事でボーナスフラグが成立するという吸い込み方式が採用されていた。今でいう所の天井が、連チャン時には短く、ハマリ時には長く選択される仕組みだ。また、4号機までスタンダードとなっていたビッグボーナスの仕組み「小役ゲーム30G・JACゲーム3回」という仕様もこの時には既に存在していた。ただし打ち方は若干異なり、ボーナスゲーム中には1枚コイン投入、1リールストップボタン停止、JACが停止で15枚払い出し、を繰り返す打ち方だ。また、ビッグボーナスの獲得枚数も純増方式になっており、概ね360枚で終了、打ち止めとなる仕様だった。

その後、普及した1号機には攻略法が出たり、不正改造による「裏モノ化」などが問題となり、こうした中、危機感を持った日電協は1986年、全国ホールのパチスロ健全化の為の基盤封印作業を開始するが、これでも不正改造は後を経たない。これを受けて主基盤の不正改造防止対策を取り入れた 「1.5号機」が投入される事となるのだが、これ以降のパチスロの歴史については時期を改めてまた詳しく書いていきたい。

■プロフィール
鈴木 政博
≪株式会社 遊技産業研究所 代表取締役≫立命館大学卒業後、ホール経営企業の管理部、コンサル会社へ経て2002年㈱遊技産業研究所に入社。遊技機の新機種情報収集及び分析、遊技機の開発コンサルの他、TV出演・雑誌連載など多数。

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