【特別寄稿】「遊技日本」を引き継ぐにあたって(WEB版)/鈴木政博

ご挨拶

平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。

昨年11月16日午前0時30分、本誌発行人であり株式会社近畿出版社 代表取締役の池田公彦氏が永眠されました。享年63歳でした。

本誌「遊技日本」は昭和36年4月20日に創刊号が発行され、今年で59年目を迎えるたいへん歴史のある媒体です。そこで「遊技日本」および「株式会社近畿出版社」の今後についてご親族の方々とも協議を重ねた結果、故 池田公彦氏の遺志を継承し、このたび、私どもが業界誌「遊技日本」の出版関連事業を令和3年7月1日をもって引き継ぐことに相成りました。

引継ぎ法人は「遊技日本合同会社」です。この法人は、本誌で20年近く連載をさせていただいている私と生前の池田公彦氏が協議をしながら、「遊技日本」の将来を見据え、Web事業などに注力するべく一昨年の令和元年に立ち上げていた法人です。今後は「Web遊技日本」を運営していた「遊技日本合同会社」にて、本誌「遊技日本」の出版、編集など出版関連事業も行います。

微力ながら遊技業界発展に尽力する所存でございますので、何卒倍旧のご支援ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

令和3年7月吉日
遊技日本合同会社
代表執務執行者 発行人 鈴木政博
代表執務執行者 編集人 鈴木紗織

この度、歴史ある業界誌「遊技日本」の出版関連事業を令和3年7月1日をもって引き継ぐこととなりました。まずはご逝去された池田公彦氏のご生前のご功績を偲び心からご冥福をお祈り申し上げます。

このお話をいただいてからお譲りいただいた大量の資料を拝見し、ぱちんこ業界の60年弱分の歴史資料、写真、雑誌や執筆物など貴重な数々を見返しました。改めて一人の業界人として身の引き締まる思いです。微力ではございますが益々の遊技業界発展に向けて尽力する所存でございますので、今後とも業界誌「遊技日本」への温かいご支援、ご協力をよろしくお願い致します。

1. 「遊技日本」創刊
今回は、遊技日本の歴史とともに業界の過去について見てみたい。

業界誌「遊技日本」が創刊されたのは昭和36年4月20日。業界唯一の経営研究専門誌として発刊されている。この「月刊遊技日本4月号」は後の「株式会社近畿出版社」となる「遊技日本社」名義で発行されており、主筆は「池田雅彦」氏。ご逝去された池田公彦氏のお父上だ。編集長は「山田清」氏、営業部長として「児玉輝美」氏が名を連ねている。この児玉輝美氏のご親族の方が、後に業界誌「プレイグラフ(創刊時はレジャーフォト)」を創刊される事となる。

池田雅彦氏は昭和20年代後半に経済新聞社の記者として勤務した後、当時創業されたばかりの「日本遊技新聞」に入社。遊技業界での第一歩を踏み出された。しかし昭和36年、この「日本遊技新聞」は当時としては珍しく新聞社がストライキを起こし倒産。これを機に、同僚だった山田清氏、児玉輝美氏とともに「今までにない遊技業界向けの雑誌発刊」を計画し、遊技日本社を設立。多数の業界内の支援を受けて「カラー表紙による業界初の雑誌『遊技日本』」を創刊した。

創刊号を見ると、定価は「150円(送料24円)」となっており歴史を感じる。もちろん私も生まれる前だが、1961年といえば総理大臣は池田勇人首相、あの名曲、坂本九の「上を向いて歩こう」がリリースされた年だ。現在、コロナ禍において様々な意味で話題の「東京オリンピック」だが、前回開催されたのは1964年。その3年前にあたる。

創刊号の中身を見てみると、創刊おめでとう、と言葉を贈っているのは、一人は当時「日本遊技機工業協同組合理事長」である「中島健吉」氏。ご承知の通り、遊技機メーカー平和の創業者だ。そしてもう一人は当時「全国遊技業組合連合会会長」だった「水島年得」氏。三店方式の父、と呼ばれ、大阪方式を全国に広めたことで非常に著名な方だ。

掲載されている広告を見ると、平和、西陣、ニューギン、京楽、豊丸、竹屋など今も健在の遊技機メーカーが多数ある一方、私の世代だと知らない「豊国遊機」や「同和物産」「大丸製作所」「いすゞ製作所」などの遊技機メーカーも掲載されている。

そして創刊翌年の昭和37年1月に「遊技日本」は第三種郵便物認可を得て、以降59年間に渡り発行を続けてきた。

遊技日本_創刊号

2. 「遊技日本」創業者逝去。二代目へ
平成13年5月4日、本誌創業者の池田雅彦氏がご逝去された。5月5日には奈良市内のホールで葬儀が行われる。喪主は長男の池田公彦氏。この池田公彦氏が、平成13年7月号より、二代目として本誌の発行人を務めることとなる。

平成13年(2001年)といえば、21世紀を迎えた年だ。4月には小泉純一郎が首相に就任。アメリカでは9.11同時多発テロが発生し、当時、皇太子妃の雅子さまが女児をご出産された年でもある。

私個人としては、この2001年頃から当時「遊技日本」の記者をしていた大西氏との交流が始まり、2001年後半あたりからは池田公彦氏との親交も始まった。そして2002年8月に私が「株式会社 遊技産業研究所」に入社したタイミングで、池田社長より本誌への執筆を正式に依頼され、2002年9月号から現在に至るまで記事を寄稿させていただくこととなる。

さて、平成13年7月号の中身を見てみると、京楽(現 京楽産業.)が「CR必殺仕事人Z」を発表した記事が見つかった。恵比寿ガーデンプレイスで新機種発表会が行われ、インテリジェント化に伴う仕様で新枠「紅」も合わせて発表。「P-vib」というハンドルがバイブする機能は評判となり、大ヒットした。またパチスロでは、アルゼ(現 ユニバーサルエンターテインメント)が5機種を一斉発表という記事が。有明TFTビルで展示発表会が行われ、司会進行は愛川欽也、うつみ宮土理夫妻。「ヘラクレス」「ファンキーダイナマイト2」「ナイトジャスティス」「ギャンブルコンボ」「インターコンチ」の5機種が発表されている。大規模な展示発表会が各社から行われていた、非常に業界が華やかだった時代だ。

掲載されている広告を見ると、三洋物産が記録的大ヒットを記録した「CR海物語3R」を、大一商会がこちらも大ヒットした「CR天才バカボン」を掲載している。他にも平和が「CR・ヤッターマン」を、SANKYOが「CRふぃーばーもののけ」を、ニューギンが「CR Super EX麻雀」を、サンセイアーアンドディが「CRパチンコ必勝ガイド~古代P文明の秘密」を掲載。個人的には非常に懐かしいラインナップだ。

遊技日本_平成13年7月号

3. 「遊技日本」二代目逝去
昨年5月、生前の池田社長からお電話をいただいた。内容は「少し熱が出てて。コロナも心配やから、PCR検査を受けてくるわ」というものだった。後のお電話で「PCR検査は陰性だった。けどレントゲンで他に気になる所が見つかったから、精密検査を受ける」と話された。後日またお電話があり「お話したいことがあるから、会えないか?」と言われ、池田社長がお住まいだった奈良県の大和西大寺に駆け付けた。お話は「癌が見つかった」というものだった。

お住まいも入院先も奈良県だったので、それから定期的に奈良へお見舞いにうかがうことにした。序盤は抗がん剤が合わないようで、食欲がなくつらいとお話されていた。しかし、「心配を掛けたくないから、この件は誰にも言わず内密で。実は娘にもナイショにしようとして、この間、怒られたんや」と笑って話された。

夏になると、奈良は猛暑日が続き非常に暑かったが、まだ池田社長の足取りは軽く、「少し髪の毛が薄くなってきた」と笑っておられた。「この間、孫が遊びに来た」と、たくさんの写真を笑顔で見せていただいた。

秋には、病状の件を伝える許可を池田社長から得て、お見舞いに同行した本誌編集長の鈴木がプレゼントした帽子を嬉しそうにかぶっておられた。そして「今回は抗がん剤が合ったみたいで、少し良くなってきた」と話し、レントゲン写真や数値のデータを見せてもらいながら、詳しく説明いただいた。当時は少し安心したのを覚えている。

11月、検査で少し入院するとの電話。そしてお亡くなりになる3日前に、本誌編集長あてに「少しフラフラするわ」とお電話いただいたのが、最後の便りとなった。

人当たりが良く、やわらかな大阪弁で、冗談がお好きで、ゴルフがお上手で、非常に楽しい方だった。ビールをご馳走になりながらどれだけお話をし、たくさん勉強させていただいたか。この20年間、数えきれないくらいの思い出をいただき、ありがとうございました。池田公彦氏のご生前のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。

お疲れ様でした。

(以上)

■プロフィール
鈴木 政博
≪株式会社 遊技産業研究所 代表取締役≫立命館大学卒業後、ホール経営企業の管理部、コンサル会社へ経て2002年㈱遊技産業研究所に入社。遊技機の新機種情報収集及び分析、遊技機の開発コンサルの他、TV出演・雑誌連載など多数。

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