【特別寄稿】パチンコ産業の歴史⑫ パチンコCR機が導入されるまで(WEB版)/鈴木政博

1. CR機構想
1990年の規則改正を前後して、パチンコは「CR化構想」が進行していた。ただしこれは業界へスムーズに受け入れられたものではなく、かなりの紆余曲折があった。

CR機が初めて登場するのは1992年だが、カード化の構想自体が始まったのは、これより数年前にさかのぼる。全国で初めて「ハウスカードシステム」が導入されたのは1986年だ。これは現在のCR機のように遊技機自体から貸玉が払いだされるものではなく、現金サンドと同じユニットから貸玉が出るシステムだった。ただしサンドに現金を投入するのではなく、まずは店内に設置されている販売機でプリペイドカードを購入し、そのカードをサンドに差し込んで玉を借りる形態。カードは購入した店舗限定で使用可能、購入当日限りの期限となっており、カードの額面も最高1,000円だった。元々はホール団体である全遊協(全国遊技業協同組合連合会)が行政側に打診して許可されたものであるが、ホールの集金業務が軽減されるというメリット(当時はまだ自動搬送がなくサンドごとに集金していた)の半面、遊技客は1,000円ごとにシマ端のカード販売機までカードを購入しに行かなければならず手間が増える。後に 2,000円、3,000円と上限額面は緩和されるものの、ファンの間にはあまり支持が広がらなかった。

一方で行政側は「INのクリア」を模索していた。当時、脱税関連のランキングで、パチンコ店が業種別で5年連続1位となっており、売上額の透明化には大義名分を見いだせるという時代背景もあった。そんな流れの中で、 1988年7月にはコスモイーシー、 オリンピック(現マミヤオーピー)、NTTデータ通信、西陣、 竹屋の5社が警察庁に「全国共通プリペイドカードシステム」を陳情し、同年に日本レジャーカードシステムが設立。翌1989年には日本ゲームカード、日本アドバンストカードシステムが続けて設立されている。

これらの動きに窮したのが全遊協だ。ハウスカードでカードシステムの普及自体にメリットを感じなくなっていた矢先であり、当時の警察庁が奨励していたプリペイドカードシステムに対しては難色を示す。こうした動きから全遊協は当局との関係が悪化。対応をまとめきれず、結局はこのCR機の導入問題で内部分裂を起こし、1990年に全遊協は解散することとなる。ちなみにCR導入積極派が中心になって別途立ち上げたのが現在の日遊協(一般社団法人 日本遊技関連事業協会)であり、ホール団体である全日遊連(全日本遊技事業協同組合連合会)だ。

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