この稿を準備しようとしたそのときに、本紙を発行する近畿出版社の池田公彦社長が逝去されていたことを知りました。
パソコンの古いフォルダを調べると、私が本紙に初めて寄稿したのは2007年の10月末のこと。以来、約13年間もの長い間、本紙で連載させていただいております。
私が2016年の2月に、古巣である月刊シークエンスの発行人・編集長を引き受けたとき、近畿出版社の本社に池田さんを訪ねました。一応は本紙と私が預かるシークエンスとは同業他社でありますから、連載についてお断りを兼ねて挨拶に伺おうということで赴いたわけです。ところが池田さんは、シークエンス側に問題がなければむしろ連載を続けて欲しいとおっしゃいまして、私の方としては何も問題ないので、では連載を続けます、ということをお話したのもまだよく覚えております。そこからは、本紙の連載稿とシークエンスでの私の記名稿とを、たとえば文字数や表現、視点など、同時期に同じ人が読んだとしても別の何かを受け取ることができるような記事にしようと個人的には工夫してきました。
池田さんに最後にお会いして直接お話したのは、ちょうど一年前のこと。大阪、京都、兵庫の三都の青年部会主催の研修会に日工組の渡辺理事とともに招かれ登壇したときです。大阪は西梅田の方の会場に同研修会を取材しに来られておりました。近畿出版社の本社はそこから一駅くらいしか離れていなかったため、社長自らが取材されたのだろうと思います。
本紙のこの連載は、近畿出版社さん側からの依頼が続く限りは私も頑張って続けようと思っております。池田さんの在りし日のお姿を偲びつつ、ご冥福をお祈りいたします。
そして本題。令和2年をざっと振り返る。
令和2年はコロナ禍の年だった。このため、多くの業界関係企業がかなり苦しい経営状況に陥ったし、肝心のホール職域の業績は前年比で80%前後程度にまで落ち込んでしまっている。なかなか難しい状況ではあるが、それでもぱちんこ業界がそこにある限り、業界関係企業はなんとか現状を打破することを模索し、努力し続けるしかない。
今年、印象的だったのは5月の公的融資可能業種にぱちんこ営業が含まれたことと経過措置延長の規則附則改正だ。どちらも主に4月に業界6団体の代表らが水面下で警察庁を含めて関係各所と折衝を繰り返して実現したものだ。3月は中ごろまでは学校の休校はあったが、それでもコロナ禍という雰囲気は日本社会にはあまりなく、ライブハウスや屋形船、豪華クルーズ船など特殊な状況下のクラスター問題という認識が主流だった。安倍・バッハ会談で今年の東京五輪延期が決まった翌日になって急に小池東京都知事が緊急の会見を開いてそこから急に日本中がコロナ禍という様相になっていく。このため、コロナ禍以前の状況とは異なり、急激に業界内でも危機感を募らせることになっていく。
今からほんの数年くらい前の業界レートでは、業界側が警察庁や政治に働きかけてこういった要望が翌月に実現するということはあり得ないほどのスピード感であった。日本全体が経験したことがないようなコロナ禍による緊急事態宣言を受けて、政府も自治体も手探りでトライアンドエラーを繰り返していたような時期である。業界6団体の代表者連名で陳情書を提出したのは5月1日のことであるが、4月までに折衝のほとんどは終わっていた。この業界が「一枚岩」となることと「政治の力を頼る」ことの重要性が証明されたような出来事であった。